2015年にLTS入社、大手自動車会社にてBPO業務の業務プロセス運用・改善の長期プロジェクトに従事、その後、課題整理・プロセス可視化等の業務分析プロジェクトを複数経験。2022年1月から自己研鑽・ボランティア休職を取得し青年海外協力隊としてガーナで奮闘中。(2023年2月時点)
ガーナでの学び 異文化で初めて気付く自らの価値観
一年半が経過し、ガーナの文化や習慣の違いにも慣れてきた。異なる文化に入れてもらう立場なので、最初はとにかく「郷に入れば郷に従え」の精神で受け入れることから始めたが、異文化に入ってはじめて気づく自身でさえ言語化されていない価値観があることを知った。一年半での学びを振り返りたい。
お金は裏切る、裏切らないのは人
ガーナに来るまでは、「お金は裏切らない、だからこそ貯金は大切」と思っていた。だが、ガーナに来てはじめて「お金があっても解決できない場面」に直面した。
例えば、水問題。
私の任地では、断水が起きやすいため、「Water is life」と言われるほど、水が貴重である。いくらお金があってもお金でシャワーを浴びることも出来なければ、トイレを流すことも出来ない。隊員間の中でも断水の多い地域の隊員は、「最悪、ピュアウォーターシャワーを浴びれば大丈夫」と言うことも多いが、ピュアウォーターが売り切れていれば、もうどうすることも出来ないのである。
断水で今日明日どうやって水を手に入れようと途方に暮れている中、親しい友人が周りの人にお願いして貯水槽に水が残っている人の家から水を運んでくれた時には、「お金よりも大事なのは人間関係」という言葉の意味がよく分かった。
人の役に立てることが幸福につながる
ガーナ人は、困っている人がいれば喜んで助ける。私が好きな現地語の一つに「アぺッ=ありがとう」「アペナウチェ=こちらこそありがとう」という言葉があるのだが、何とも素敵な返しだと思った。驚くことに「どういたしまして」ではなく、この「こちらこそありがとう」がどのローカル言語でも存在するのだ。
水を持ってきてくれた友達に「アペッカカカッ=本当に本当にありがとう」と言うとまたもや「アペナウチェ」が返ってきた。助けてもらったのは私だけなのにどうして、こちらこそありがとうと言えるのか聞いてみると、「aikoがハッピーになり、笑顔でありがとうと言ってくれるとこっちも嬉しくなる。自分が役に立てたということが嬉しい」と言ってくれた。この役に立てたという自己効力感がガーナでは特に幸福につながるようだ。
「無償の愛」を文化として受け入れる難しさ
ガーナに赴任して以来、ガーナ人から何度も無償の愛をもらった。特に思い出に残っているのが、任地について間もないころの話である。
右も左も分からず、とりあえず食材を入手するために村を歩き回り、ようやく見つけた商店でマダムが「全部無料で良いわよ。あなたは、今日から私の娘だからね」と初対面の私を娘のように受け入れ、たくさんの野菜をもらった時のことである。
この地で生きるのが不安だった時にこのマダムの無償の愛はとても大きく、涙が出るほど嬉しかった。そして、無償の愛をもらったと喜んでいたのだが、最近仲の良いガーナ人としたケンカをきっかけにこの「無償の愛」を文化として受け入れる難しさを痛感することになった。
親切と対価
私にはガーナ人の親友が出来た。彼は学校のICTコースの卒業生で、彼と彼の恋人とよく3人で遊ぶのだが、定職にはつけていない。彼らは、いつも私を気にかけてくれ、ガーナ料理を作ってくれたり、一緒に畑に行き、色んな木の実やカタツムリをとって調理したりといつも新しいローカルな世界を見せてくれる。
そんな彼が金銭的に困った時には、サポートすることもあったのだが、そこには、いつも自分の無意識下で「対価」を意識していた。
例えば、料理を作ってくれるサービスの対価として食材を提供する、マーケットで重い荷物を持ってくれた代わりにローカルドリンクをごちそうする、という風に、お金だけをあげるという行為が受け入れられず、いつも対価としてこちらも何かを提供していた。しかし、ある日のマーケットデーで事件は起きた。
その日は、私は一人でマーケットに行こうとしており、それでも彼らが一緒に行きたいと言ってくれたので、一緒に行くことにした。マーケットの時間を私と楽しみたいと思ってくれているのだと思ったが、私がマーケットで色んな人と挨拶をし、世間話をするのに疲れたのか、とても楽しそうな表情には見えなかった。
そして、マーケットの最後に「履物が壊れているから新しいのを買って欲しい」と言われ、その瞬間に私は「これが目的だったのか」と思ってしまったのである。値段にすると200円程度の話だったのだが、私は彼らに財布と思われているのではないかと考え始めるともやもやが止まらない。
彼らとは対等な関係でいたいと思っていたので、散々迷ったあげく直接聞いてしまったのである。「あなたが親切にしてくれるのは、私がお金を持っているからか」と。私の英語力の問題もあり、いくら前置きを長くしたところで、「Because I have money?」という言葉は深く彼の心を傷つけてしまった。
彼は、「No…」と言うだけで、その後何も発することはなく、共通の近い存在である私のカウンターパートに相談したそうだ。カウンターパートから彼が深く傷ついていた話を聞き、なぜそんなことを言ってしまったのかと聞かれ、自分の心境を改めて振り返ることになった。
無償か対価か
彼は最近、彼が以前関わった日本人の話をよくするようになった。その日本人は、誰かに何かをシェアすることを好まず、いつも部屋に閉じこもっていたそうだ。知り合いを家に招いた際に、ものが無くなってしまった経験から心の壁を閉ざしてしまったのかもしれないと言っていたが、彼はガーナに来て尚、日本人らしいスタイルを貫くその姿勢を少し寂しく思っていたそうだ。
そんな彼が最初に私を見たのは、私がピュアウォーターを多めに買い近くの人にシェアしている様子だったらしく、「日本人の中にもシェアすることを好ましく思う人もいるのか」と衝撃を受けたそうだ。それ以降もマーケット帰りにドリンクを買ったり、困った時には病院代を負担したりとサポートすることも多かったのだが、そこから彼は「aikoはガーナ人のメンタリティーと文化をよく分かっている」と思っていたそうだ。
確かにガーナ人が皆、水を多めに買って「あなたもいる?」と聞いてくれる姿を真似してやっていた部分もあるが、私は無償で何かをあげていたつもりはなく、いつもサービスの対価として何かを提供していただけなのである。
しかし、この私の価値観を言語化して伝えたことはなく、彼は「持つものが持たざる者に与える」そして「与えられることに喜びを感じる」というガーナの価値観を私が理解し、体現していると思っていたのである。
親切という行為だけでは図れない「存在」が与える価値
このギャップに気付いた際に「私は、無償の愛をもらった際に喜んでいたけれど無償の愛を与える準備は出来ていなかった」という事実にようやく気付くことが出来た。
そして改めて「見返りを求めず、無償の愛で誰かを包むことは出来るのか」と考えると、やはり心の底からYesとは言い難い。単に無償で何かを与えることは、その人が自立するきっかけを奪ってしまう可能性がある、と考えていることに気付いた。
そして「お世話になったから私もお返ししたい」という返報性の考えを大切にしたいと思うようになった。そうすると私は、与えられるのが先なのかとまたもや悩んでしまい、考えすぎると訳が分からなくなってしまうので、最近は「今、私がその人を助けられる状況にあり、助けたいと思うかどうか」でシンプルに考えるようにした。
ここまで内省をしてはじめてカウンターパートから「aikoはお金の価値では測れないものを彼らから日々もらっているんじゃないかな」と言われた言葉を理解し、自分がした愚かな質問を恥じることが出来た。いくらお金があっても、一人で異国の地で食べるご飯は寂しいし、いつ入手できるか分からない水を待つのは心細い。困った時に電話1本で駆けつけてくれる彼らの存在がどんなに有難いか痛いほどに分かった経験である。
その後、彼には心からの謝罪をするとともに感謝の気持ちを伝え、数日はぎくしゃくしていたが、今では毎日家でトランプ(大富豪)をして、一緒に畑に出かけ、ガーナ料理を美味しく食べる家族のような存在に戻ることが出来た。
「人生を終えた時、大切な友達が誰一人お葬式に来てくれなかったら寂しいでしょ?お金よりも大事なものはたくさんあるよ」と大切な気付きをガーナに来て教えてもらったのである。こういったかけがえのない財産をガーナで手に入れられたことに感謝しつつ、残りの任期も人を大切に活動に励んでいきたい。
今回のレポートは以上です。次回もお楽しみに。
エディター
SE・テクニカルライターを経て、LTS入社。ERP導入や業務改革におけるユーザー向け広報・教育企画および業務文書改善など組織コミュニケーションに関連するコンサルティングに従事。2017年よりLTSコンサルティング事業のマーケティングを担当。2021年より本サイト「CLOVER Light」の立ち上げ~運営・編集長を務める。(2024年1月時点)